自分の会社は、明日でクローズ(解散)される。

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■ 終わりの始まり
自分の会社は、明日解散をする。
厳密にはそれは月末日なのだが、手続きは休日の兼ね合いで明日金曜になった。

法人とは、法の上に成り立つ人である。
言うなれば、きっと架空の人格・空想の人格・書類上の人に対し、法的に権限を与えたものだ。

本来は、複数の人が集まり何らかの活動を行う際に、代表となる自然人にすべてを紐付けるのは現実的では無いため、こんな制度になっているのであろう。
有り難い話、こういう時に法的な意味で有限責任というのは嬉しい話である。

現実、僕という人に対する評価も、いい加減に下がるんだろう。
・・・その程度で嫌われるのであれば、きっと最初からその程度の付き合いなのかも知れないけど。
今となってはその方が有り難いよ。
誰にも嫌われない世の中には、きっと1次元でしか無いから。

■ 終わりはあるということ
元々、何かやりたい情熱だけで会社を作ってしまったのである。
・・・自分も、若くてバカやったなー。。。
今になってすれば、そう思う。

気付いたら、2年も経ってしまった。
気付いたら、内的動機は無くなってしまい、外的動機のみで動いている自分が居た。
きっと、自分の精神的苦しさの原因は、それであろう。

この状況を長く続けて居れば、きっとそれ以上の人生は自分には無い。
・・・去年の秋、そう思った。

自分の中で、その何かが外れた時、場所もわきまえず泣き崩れそうになってしまった。

用事が終わり、少しの空いた時間で、読書をしていたとき。
札幌のKANTEさんでアドラーの赤い本を読んでたとき。
「人生とはパーティーで踊るようなものだ」
そんな一節が、急に心に染みて、涙が溢れてきた。

こらえて歩いて北大のキャンパスに行き、独り泣き崩れたのを覚えている。
・・・きっと、あの日から終わりは始まっていたのだろう。

自分は、なぜRPGのパーティーに参加し、勇者でなくとも毎日遊び、戦い、宿屋で酒を飲んで笑い合って、ぐっすり眠ることを出来なくしていたのだろう。
そんな事を思った。

答えなんか、まったく出ていない。
ただ少なくとも、ソロプレイであることを辞め、剣も魔法も何もかも出来るマルチプレイヤーを辞めていった。

心が切り替わったとして、身体や現実世界が適応・変化するには、膨大な時間とエネルギーが必要だ。
それは・・・過去の経験で、身に染みてわかっている。

何事にも、やっぱり終わりはある。
自分は結果として何も残せなかったのかも知れない。
ちょっと散文を書いて、ちょっと話し、ちょっと手を動かした程度。
・・・そんな事を思っている。

■ 終わるという不確定事項を確定すること
実は、直前の直前まで、この法人をどうするべきか悩み続けていた。

休眠か、解散か。

結果として、やっぱり解散を選んだ。
自分は、一度まっさらにして、もう一回やり直した方が上手く行く。
そんな経験則が、現実を確定させたのかも知れない。

解散の手続きなど、1人会社では比較的簡単なものである。
・・・普段使いのWindowsの環境が汚れるのは気に食わないが。
仕方が無い、これが日本国の手続きというものなのだろう。

解散登記のあとも、やることは多い。
・・・それでも、外的動機は減っていくのである。
その空いたリソースを・・・精神的リソースの回復と、内的動機を見つける旅に割り当てられるのであれば、きっと良い釣り合いなのだろう。

ここまでの1年で、かなりのモノを整理した。
物理・データ・ドメインといった権利類、人間関係・・・色んなモノが整理されていった。

こういう時、箱庭とは面白い考え方だと思う。心の中がそのまま現実に投影されてしまう。
部屋のモノを整理するたび、自分の膿みが目の前に出てくる感覚だった。
捨てて、捨てて、捨てて・・・。
それでも、まだ捨てるべきものはある。

でも、心がまだ持っていたいのだから、きっともう少し共にするべきモノなのだろう。
おそらく、あと1年くらいゆっくり掛けて、色んなモノを整理していくと思う。

そして、「おつかれさま」なんて思いながら、それを手放していくんだとおもう。

ただ、一度作ってみた積み木を、崩し。
もう一度、積み木を組んでみて、崩し。
もう一回積み木を組み、あぁ所詮こんなものか、なんて思い。。。

それが、きっと自分のやり方なんだろうと思う。

■ 終わりを迎えた後の話のこと
僕は、エンジニアである自分を引退した。
きっと・・・身体が自然動くようになるまで、それらの事をしばらくは忘れていると思う。

そして、僕は自分の名前や身分を外してみている。
・・・面白い。どうやら、今居る世界はそういった人たちが集まってきているようだ。

そして、彼らと一緒に居ることで、相対的な自分の評価を、自分で測定してみている。
「類は友を呼ぶ」とは良く言ったものだ。
似たような考え方や経験をしている人たちの中に居るのは、とても居心地が良い。

そして・・・ずっと理解出来なかった物事を、対話のみで理解していっている。
「なぜ、彼らは自分が理解出来る事象しか存在を認められないのか。」
「なぜ、彼らは目の前にそれが存在する事を肯定出来ないのか。」
「なぜ、彼らはそれらの事象に対して、感情的解釈と論理的解釈を混同もしくは誤解してしまうのか。」
「なぜ、彼らはこんなにも不安であることを認識できていないのだろうか。」。。。

これらを解いていくたびに、自分を縛っているものも外れていく気がする。
・・・ああ、やっぱりどこかに同士が居たのか。
そんな事を思い、安心をしながら。。。

■ 自分のこと
人生も40近くもなると、自分の事がわかってくるものだ。
自分に最適な方法・時間・空間。
自分の学習曲線、回復曲線。
自分のコアとなっている考え方。。。
自分に残されたもの、自分に足りないもの。。。

・・・それらへの認識すら無い人間も大勢居るが、皮膚から大気側はすべて「他」なのである。
仕方が無い、物理リソースを大量に使い、自分以外の何かの事象が変わるのであれば、きっとそれは幸せな方なのであろう。

つい最近まで、40までに死ぬことを夢見ていた。
きっと昔好きだった織田信長の影響だろう。
それくらい、将来に夢など観ていなかった。
ただ、40までに死ぬ事が幸せ。そう思っていた。

しかし・・・師を追うにつれ、それはきっともったいないのだとも思った。

自分の師のひとりは、紙とペンで自分のオリジナルの計算機を自作し続け、最後は自分の力でそれを完成させた。
自分の師のひとりは、まだ観ぬコンピュータの精巧なエミュレータ上でコード書き、いきなり実機で動かした。

彼らの頭の中では、きっと色んな物事が完結するまで、何度も何度も繰り返され、ネストされつづけ、検証され尽くしたんだろう。

結果、コテを握ったり、ひたすらキーを叩いてる時間というのは、ただ検証され尽くした結論を吐き出していたに過ぎないのかも知れない。
ああ、とても時間が掛かる。めんどくさい。メロンソーダでも飲むか・・・。
そんな事を考えてたのかも知れない。

なんとなくそれを感じたとき、自分も同類なんだな、なんて思った。
・・・彼らのように偉大になれなくとも。ただ同類であった、もうそれで十分だ。
きっと、そんな風に彼らの考え方や理解の仕方を、出来たモノを通じて吸収していって、解釈し尽くすのが楽しいんだろう。

アウトプット?そんなの知らない。
少なくとも、今誰かにお仕着せられた「仕事」なんて事をするのは、もう楽しくも何ともないんだ。
きっと自分の為にやりたいことが出来たら、またふらっと戻ってくるよ笑笑
先人達をみてると、きっとそうなるみたいだね。

ただ、それだけの散文。

さいごに・・・
僕は、これを解放宣言のように思っている。
深い怒りと悲しみからの、解放宣言だ。

ああ、楽しみだ。
「おつかれさまでした。」「悲しいです。」
ただそれだけの表面した見えていない人間が、ただただあぶり出されるのが。